続いて、茂子さんの家を訪ねる。
今度は茂子さんのご主人もご在宅だった。そしてなんと、この夫婦は従兄弟同士の結婚だという、つまりふたりとも、茂三郎さんの従兄弟の岩太郎さんの孫だった。
一度に二人の親戚(三従兄弟)と会えたスティーブさんも我々も驚きを隠せない。茂子さんはたくさんのアルバムを出してきてくれた。おじいさんが大切にしていた写真を、茂子さんも大切にとっておいてくれていた。お陰で、親族に囲まれた立派な姿の茂三郎さんの写真を見ることができた。
「で、茂三郎さんの、なににあたるんかな?」
「孫です。茂三郎さんの、孫。だから、スティーブさんは茂子さんのみいとこにあたるんです。」
うんうん、とうなづき、写真を眺め、ひとしきり写真の人物の説明をし
「で、この人は、茂三郎さんのなににあたるんかな?」
何度も何度も確認をする茂子さん。
目の前にいる、自分によく似た、でも英語しか話せない人物が、即座に自分の親戚というにはあまりに実感が薄く、でもなにか関係があるらしい、と。きちんと彼女の心の中に刷り込まれるまでに時間がかかるのだろう。私もたろうも、何度でも同じように答える。戸惑いつつも、嬉しそうな表情を見せてくれる。
小田家は由緒ある武士の家系で、お父さんも茂三郎さんも分限者だったという。これは意外だった。小さな島だし、「小田」という名前からして農家かな、明治時代に名字をつけたのかも、と思っていたが、茂三郎さんの出た家は佐島の中でも歴史ある家の本家で、茂子さんは分家筋に当たるのだという。西方寺さん自体も数百年前に移築するまでは別の場所にお寺があったといっており、非常に歴史の深そうな島だ。
茂子さんの家の隣りが茂三郎さんの家のあった場所だ。敷地内にかろうじて立っている崩れかけた土蔵がある。「こわすのもなんでな」と茂子さん。雨風で少しずつ崩れているのだろう、土壁が崩れ、芯の竹組みも素通しになっていて、隙間からは農機具や大きな瓶などが見える。今、中に立ち入るのは到底無理そうな状態だ。扉を開けようとすれば一気に崩壊しかねない。なんとか持ちこたえていたのは、スティーブさんを待っていたのだとしか思えない。
茂三郎さんの子供時代には、この土蔵はきちんと使われていただろう。茂三郎さんもお父さんに叱られて閉じ込められたりしたかもしれない。
この敷地にあったという茂三郎さんの家自体は解体され、材は一時期役場の倉庫に保存されていたが、それも再利用されて今はないらしい。今立っている建物はその後に建てられた物だという。角にお地蔵さんがまつられていた。
玄関先で茂子さんと重文さんにお暇を告げていたとき、先に表に出ていたたろうさんがふと何かを見つけた。「あれ」と指差す方を見上げると茂子さんの家の屋根瓦に、例の家紋の瓦がついていた。あ、同じだ!ほんとだ!スティーブさんと無邪気に喜んでいると、
「たしかひとつ、余分があったはず、まってて」と重文さんが家の中に入る。
手にして出てきたのは、まさにその家紋のついたちいさな瓦のかけらだった。
「あげますよ。どうぞどうぞ」
驚き、感謝するスティーブさん。3人並んでニコニコしているのを見ると、ほんとに血のつながった親戚なんだなあと思う。
名残惜しそうに、家の外まで見送ってくださったおふたり。次の角までゆっくり歩いて見送ってくださった。明日の演奏会に来てくれるとおっしゃっているし、翌日にはたぶん再会するはずなのだけれど。